末光喜代三君の憶い出
廣戸幾一郎
(昭和48年11月 京大耳鼻科同窓会報)
わが友、末光喜代三君は昭和48年2月16日午後5時30分、数
年闇の'苦しい闘病生活の末にこの世を去った。
最後に松山に見舞ったのは死の約3カ月前で、既に医院を閉
鎖して居り、病気の一時的危機の直後のことであった。下半身は全く麻痺して
いた。骨と皮に痩せ細つた腕を伸して私の手を握り、よく来てくれたと喜んで
くれたが, 「痛みがこんなに苦しいものとは知らなかった。回復したら、わし
はペインクリ二ツクをやる」と抱負を語った。棺桶に脚を半分突込んでいる人
の言葉とも思えない。彼の人生哲学を浮き彫りして余すところがない。 Γここ
に真の医師が居る。その名を末光という」。こんな気持で私は聞いた。
末光君は大学時代は京大の寄宿舎にいたように思う。非常に真面目で、満蒙
開拓慰問診療班に参加して一夏を送ったりするタイプで、私とは膚合いが違っ
ていたから、実は学生時代に語り合った記憶はない。彼との交渉は共に耳鼻咽
喉科医になってからのものである。医学部3年の夏休みには既に京大耳鼻科に
出入りして手術場で鉤を引いたりしていた。当時、外科に行こうか耳鼻科に行
こうかと迷っていた私は、こんな学生時代から耳鼻科医のような真面目な男が
相手ではかなわないと敬遠した気味が多分にある。結局、卒業と同時に耳鼻咽
喉科に入局したのは彼一人で、星野貞次先生からeinzigesSchulerといって
可愛いがられたと聞いている。 1年間教室にいてから出征し、戦後私が入局し
て1年後にビルマから復って来た。
後藤光治先生の宿題報告もすみ、従って私達のアルバイトも一段落した頃、
彼は先生の命令で耳鼻咽喉科日本文献集を作成していた。たしか1年近くかか
つた様に思うが、面白くもない仕事をコツコツとやっている姿を見るに見かね
て、Γおい末光.手伝おうか」と声をかけたことがあるが、 「わしは楽なテー
マで学位をもらったから、この位のことをしなけれぱ申し訳ない」といって手
を触れさせなかった。なまじ変な手伝い方をされてて混乱がおこるのを警戒して
いたのかもしれない。結局独力で完成したが、当時の教室員の顔ぶれをみる.と
末光君ならではの仕事であった。
末光君は自分は女性にはもてない男だと頭から決めておった様に思う。やせ
ている、背は低い。こんな風采の上らぬ男に女性が想いをよせるものか。そぅ
口にも出していつていた。人間にはもっと大切なものがあると心には思ってい
たろうが、表面的には過ぎる位に卑下していた。そのために自分というものを
知ってくれて、真面目に結婚を考える異性を見出した時の彼の喜びは人並み以上
であつたが、教室にいる時には2度とも相手方の両親の反対で潰れた。京都の
人でないというのが理由であった様に記憶する。彼の気持が浮いたものでなか
った証拠に、後年その女性の配偶者が偶々入院した時、末光君は自分から主治
医を買つて出て至れり尽せりの治療で全治させた。私は事のいきさつを知って
いたから、末光君のあの態度には頭の下がる思いであった。
講師の職を辞して、彼は一年間八幡浜総合病院の医長として赴任した。そこ
では旬日を経ずして名医の評判を獲得し、病院興隆の囚をなしたように聞い
ている。その後再び講師として大学にかえって来たが,その頃の彼は学問的悩
みを持ちつづけていたようであつた。 Γ1年間の空白は学者としての命を奪っ
てしまった。今や自分には京大講師としての学問的資格は全くない」。こうい
うのである。 「おい広戸、外来の当番日だろうがなかろうが、研究室にこもり
たい時には勝手に休んでくれ。後はわしがしてやる。 わしにはその位のこと
しか、講師としてするベきことがない」。 こうもいった。職責ということを
こんなに真面目に真剣に考えた男を私は知らない。 その後、岐阜の助教授として
赴任したが、 自分から進んで教室を出たのではあるまいかとも思っている。
岐阜には数カ月しかいなかった。大阪の関連病院に移り、 ここも1年有半で
辞して松山の県立病院に帰った。当時の岐阜医大は大学というものを真面目に
考える末光君にとつては堪えられなかったらしい。 また、大阪を去るにあたり
て、Γここはめくら千人、めあき千人の街だ。わしの働ける場所ではない」と
いい残して行つた。表面的なことで人を評価し、真の評価をしてくれないとい
うのが不満だったようである。松山に帰って1年位たった頃のことだった。
「八幡浜では1カ月も経たないうちに名医の評判が流布して患者は急増したの
に、松山では仲々そうゆう訳にはゆかなかった。やっと此の頃になってわしの
腕を認めてくれ出したようだ」と私に話したことがある。 この時以来、末光君
は愛媛県に於ける耳鼻咽|喉科医の学問的指導者になって行った訳である。
昭和3l年、北海道で日本耳鼻咽喉科学会が開催されることとなり、私は札幌
までの長旅を木光君と同行した。夏であるので私はガブガブ水を飲むのだけれ
ど, 彼は食事の時以外は全く水を飲まない。 不思議に思って聞いたものであ
る。 Γわしは元来、あまり水を飲まないのだ。身体に水気がないものだから,
これこのとおりひからびてやせているのだよ」とユーモラスな答えが返って来
.た。札幌では私達夫婦と末光君と3人であちこち見物に行った。私の講演中は
家内を案内して頂いた。私は未だに北大構内のポプラの並木道を知らないが、
家内は末光君のおかげであそこを散策したという。 この時以来家内はΓ貴方に
万一のことがあった場合、相談出来るのは末光先生だ」というようになったが、
それが逆になつてしまった。末光君にとってせめてもの気休めは,逝くなる1
年前にご子息が久留米大学医学部に入学されたことであろう。.私が面倒をみた
訳でも何でもないが、私自身も実はほっとしているのである。
逝くなる1年半前に、私は日耳鼻中国四国合同地方会に出席し、はじめて彼
と松山のコースを廻った。彼は1年振りのゴルフだといっていたがよくきまっ
て優勝した。 ゴルフをはじめて以来初めての優勝だといって大喜びだったが、
これが元気な彼をみた最後であった。
(昭和48年11月 京大耳鼻科同窓会報)