歴代末光家
初代  常右衛門州之
2代   武右衛門半左衛門
3代   吉兵衛
4代   武兵衛武左衛門
5代   武右衛門忠右衛門
6代   清三郎
7代   清三郎嘉惇
8代   清三郎嘉倹
9代   清三郎嘉逢
10代  清次兵衛嘉絃
11代  清次兵衛嘉壽
12代  貞兵衛嘉郷
13代  清三郎嘉讃
14代  清次兵衛嘉丈
15代  清三郎源之進
16代  貞兵衛嘉徳
17代  清次兵衛多三郎
18代  仙次郎
19代  保吉

私の名前の由来は?


私の名前の末光清貞という名前は、そもそもは祖父が付けたと聞いていました。
父は昭和48年に亡くなりましたので、詳しい話は聞けませんでした。
母はおじいさんが勝手につけたといいます。
当初は
父の名前:喜代三
母の名前:貞子
のそれぞれの文字をとって清貞とした。
くらいに思っていました。
でも喜代と清で字が違います。

先日父の従兄弟になる方とお会いすることが出来ました。
そして先祖の資料をいただいて、実はそうではなかった事が判明したのです。

私の祖父は末光保吉(末光家19代)と言います。
もちろん明治生まれです。

先祖は大洲で對馬屋という商店を営んでいたそうです。
對馬屋はお酒の醸造、味噌醤油の醸造、廻船問屋などを営んで、大洲では大きなお店でした。
しかし明治になって對馬屋は没落をして、祖父は松山市西町に移住します。
その時点で大洲の對馬屋は店を閉じたそうです。

松山では「大光醤油」というお店で醸造をしていたそうです。
結構繁盛していたようですが高利貸しにあって倒産をしたそうです。

私の記憶にある祖父はすでに倒産したあとでした。
子供の時に祖父に手を引かれて長浜へ連れて行かれたのを覚えています。
長浜に親戚がいたのかもしれません。
昭和34年、私が8歳の時に亡くなっています。

その祖父の末光保吉の先代は末光仙次郎(18代)という人です。
(この人は養子で梶田与三右衛門の3男、今の大洲の梶田商店?)

その先代が末光清次兵衛多三郎(17代)。

そのまた先代が末光貞兵衛 嘉徳(16代)、
そのまた先代が末光清三郎 源之進(15代)という人です。

末光家は元々は津島町の郷中(庄屋)であったようです。
その後大洲と宇和町に大きく別れたようです。
何故津島の出身で屋号が字の違う對馬屋になったのかはよくわかりません。
そのまた先祖が対馬であったという話もあります。

つまり、私の名前の、清と貞は對馬屋代々の名前だったということなのです

いろは丸と對馬屋


慶応2年、1866年大洲藩はいろは丸を長崎で購入します。
大洲藩士の国島六左衛門は鉄砲購入のために長崎に出向きますが、坂本龍馬に「これからは銃より船の時代ぜよ」と説き伏せられて船を購入した、と言われています。
しかし、現実にそんなことがありうるでしょうか?
当時は藩の命令は死より重い時代です。
藩命に背いて別のものを大金で買うなんてことができたとは思えませんが。

すでに大洲藩は船を購入することを決めていた、という話もあります。
現に大洲藩士の小野充之助という人が国島より先に長崎へ入っており、事前に船購入の画策をしていた可能性もあります。
そして国島は契約のために長崎入りをした、とも考えられます。
しかし、国島は何故か船購入直後に切腹をしているのです。
何故切腹をしたのか今だにその謎は解けていません。

それを聞いて真っ先に駆けつけたのは坂本龍馬ですので、あながち銃を買うつもりが坂本龍馬に騙されて船になって、その責任をとっての自刃という話もありかもしれません。
現在その時の売買契約書が大洲の歴史探訪館に残されています。
そこにはちゃんと大洲藩がポルトガル人から買っています。

ところが大洲藩資料(伊達家保管、国会図書館)に「藩船いろは丸購入にあたり、町人對馬屋貞兵衛と申すもの荷物運漕の為、長崎表にて購入」と記されているのです。
そして高知の坂本龍馬記念館所蔵品に

早速坂本龍馬記念館へ出向き、非展示だったのを学芸員の方にお願いして現物を見せていただきました。



当時の大洲藩は勤皇派でしたが幕府に対して勤皇派とは思われたくなかったので町人對馬屋が買ったように報告をしたと考えられます。
また財政的にも裕福ではないので、對馬屋及び町人有志がお金を出したのではないかと思われます。
慶応4年、明治元年に明治天皇が東京へ向かわれる際、大洲藩はその先軍を勤めています。



大洲の法華寺にある對馬屋貞兵衛(別名:末光永三)のお墓(真ん中)、明治13年没

いろは丸事件

いろは丸は大洲藩が購入後は何度か長浜に海援隊の手を借りて帰航しています。
その後は長崎へ戻り、一航海15日間500両の契約で、亀山社中、海援隊に貸し出され、慶応3年5月22日に長崎を出港します。
初めての大阪までの航海です。
ところが5月26日深夜福山の鞆の浦沖で紀州藩の明光丸と衝突し、沈没します。
乗っていた坂本龍馬をはじめ海援隊、乗客の10名程は明光丸に乗り移り無事でした。
その後の紀州藩との賠償交渉は長崎にて行われ、坂本龍馬は万国公法や、紀州藩を責めるはやり歌を流行らしたりして、有利に進めます。

しかし実際はいろは丸が明光丸を右に見る形になっており、原則はいろは丸に衝突を避ける義務があります。
ところがいろは丸は右に舵を切らないといけないのに左に舵を切っており、そのために衝突をしています。
衝突の後明光丸は一度後退をして、その後再度前進して衝突をして、この2度めの衝突でいろは丸は沈没をしたので、その点を坂本龍馬達は指摘したのでしょう。
また鉄砲や大砲、それに金塊も積んでいたと主張して当初8万3500両(約40億円)、交渉で後に賠償金は7万両を紀州藩が支払うという事になります。

紀州藩は賠償金を土佐商会と、さらにオランダ人ボードインに大洲藩の購入残債として27,280両を支払っています。
大洲の歴史探訪館にある売買契約書では船代金全額は支払い済みと書かれており、何故紀州藩がそのような支払いをしたのか謎です。
また大洲藩がいろは丸を購入したのはポルトガル人のロウレイロであって、オランダ人のボードインではないのです。
どうもいろは丸は大洲藩が購入する以前に色々と債権者が絡んだ謎の船、黒い船だったとも考えられます。

2004年にいろは丸は潜水調査をされていますが、鉄砲や大砲、まして金塊などは発見されていません。
そのために坂本龍馬は賠償金詐欺をした、とも言われています。

しかし、その賠償金が支払われた8日後、11月15日の自分の誕生日に坂本龍馬は京都の近江屋で暗殺され、その賠償金を自分で手にすることはありませんでした。
受け取ったのは土佐商会の岩崎弥太郎と後藤象二郎です。

そのうち船の購入代金と言われる4万両ほどは、明治維新のゴタゴタもあって大洲藩にも對馬屋にも戻ってきませんでした。

對馬屋自体が出した分も、また町人が出資した分も對馬屋がかぶったらしく、その負債のために對馬屋は没落をしていくのです。

一方賠償金を手にした岩崎弥太郎は、そのお金を元手にし、その後三菱を作り政商として大成していきます。
そのことは、「三菱商事社史」にも触れていることから明らかです。
後藤象二郎は明治維新後、政府の高官になりますが、三菱の有利になるようにあらゆる場面で手助けをしています。

一方いろは丸を失った大洲藩に対して土佐商会は小さな帆船の洪福丸という船を提供しています。
先の紀州藩が支払った27,280両がその代金であったのかもしれません。
ところがこの洪福丸は悲劇の帆船で、戊辰戦争に駆り出され、乗り込んでいた7名の大洲藩士の乗組員は新潟の河口で嵐の中海に投げ出され亡くなっています。
船もぼろぼろになりますが、なんとか沈没を免れ、長浜へ戻りますが、その姿は哀れなものになっていました。

大洲藩二番船「洪福丸」のゆくえ
時代に翻弄された、人と船
http://www5b.biglobe.ne.jp/~ecoline/oozuhan.htm

その後洪福丸は北海道へ売却されていきます。

坂本龍馬は誰に殺されたか


坂本龍馬暗殺の謎は諸説あり、未だにミステリーになっています。

京都見廻組説
紀州藩説
薩摩・長州藩説
土佐藩説
中岡慎太郎説

その中で実行したのは京都見廻組というのは事実であろうと思われます。
2011年のNHKの龍馬伝も京都見廻組説を採用しました。
京都見廻組の今井信郎が後に函館で捕虜になって、その取り調べの中で坂本龍馬暗殺を自白しています。
また会津藩士で京都見廻組の佐々木只三郎も後に兄弟に告白しています。
渡辺篤も実行犯であったと言われています。

実行犯は京都見廻組であったとして、問題は誰がそれを指示したのか、ということです。

可能性として一番高いのは、巨額な賠償金を取られた紀州藩であろうと言われています。

海援隊のメンバーである陸奥陽之助(後の陸奥宗光)は、陸援隊とともに坂本龍馬暗殺の仕返しのために、紀州藩の三浦休太郎を襲っています(天満屋事件)。
(三浦休太郎は後の東京都知事)
怪我をさせるに終わりましたが、陸援隊は1名、警護にあたっていた新撰組は2名がその時に死んでいます。
陸奥陽之助は紀州藩出身ですので、その紀州藩の事情が多少でもわかる人間が紀州藩に仕返しをしようとしたことは、紀州藩が龍馬暗殺の首謀者たる証拠でもあるでしょう。
また襲われた紀州藩は、その後仕返しをしていませんので、それまた紀州藩説の裏付けでもあります。

坂本龍馬は前年の寺田屋事件で伏見奉行所の同心2名を拳銃で殺しています。
伏見奉行所を管轄するのは会津藩ですから、会津藩説も大いに可能性はあります。
紀州藩、会津藩共に御三家ですので共謀した、というのも考えられます。

勝海舟も、紀州藩、会津藩、それら幕府側の誰かが京都見廻組にやらせた、と言っていますし、それが真実なのでしょう。

しかしどの説にもこれといった確証はなく、未だに謎に包まれています。
中には、倒幕について穏健派であった龍馬と、武力で幕府を倒そうと主張する過激派の中岡慎太郎が意見が対立してやったという説もあり、あながち嘘とはいえない点もあるのも事実です。

我々は海援隊と陸援隊は単に海と陸で同じように思っていますが、実は全くの別組織で、意見の相違もあったのだそうです。

まとめ

末光家、對馬屋の没落にいろは丸、坂本龍馬が関係していた。

坂本龍馬が死んだのはいろは丸を通じて對馬屋が絡んでいた。


余談です。

2011年に放送されたNHKの大河ドラマ「龍馬伝」の最終回で、福山雅治演じる坂本龍馬が、近江屋で京都見廻組、今井信郎を演じる市川亀治郎に眉間を割られ、まさにその断末魔、日本中の福山ファン、龍馬ファンが見つめる中、いきなりテロップが流れたのです。
「愛媛県知事選、新人の中村時広氏 当選確実!」
それを見ていた日本全国の視聴者のブーイングは凄まじかったのは言うまでもありません。
天下のNHKの前代未聞の大失態です。
愛媛県民としてもとても恥ずかしい思いを致しました。



なお、2013年の大河ドラマの「八重の桜」では、坂本龍馬の話にはほとんど触れませんでした。
坂本龍馬の後ろ姿をほんの少し写しただけでした。
八重の兄の山本覚馬は、大洲藩の国島と同じ時期に長崎に銃の買い付けのために長崎に滞在しており、山本覚馬は国島と違って銃を買っています。
当然国島と同様坂本龍馬と接点があったのは間違いはありません。

現実には会津藩主、松平容保が龍馬暗殺を指示したのかもしれないのですが、「八重の桜」は会津藩の悲劇を描くドラマなので、逆イメージになるのであえてそこは取り上げなかったのでしょう。
また坂本龍馬を登場させなかったのは福山雅治の龍馬イメージを変えたくなかったNHKの意図も感じられます。

(2013年、平成25年8月21日 末光清貞 記)